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2015年最後の夜、音楽の夢をみた。
僕はその夢のなかで、音楽を作っていた。シンセサイザーかピアノらしきものを弾きながら、和音の流れを作っていた。最初に僕が奏でた和音はEm(イーマイナー=ミ短調)で、それがやがてE♭m(イーフラットマイナー=ミ♭短調)に転調されるような流れの音楽を作っていたのだ。 そこへ、見知らぬ男がやって来て、僕にこう言った。 「Emは、過去における死を意味している」と。 ![]() Emとは、ミの音をベースに作られる悲しげな響きの和音である。その男は、それが「過去に起こった誰かの死」の意味なのだ、と言ったのだ。 すると、そこになぜか、三島由紀夫が突然あらわれて、彼に続けてこう言った。 「E♭mは、未来の死を意味する」 と。つまり、僕が作っていた音楽の流れは「過去における誰かの死が、未来における誰かの死になる」という意味を持っている、と夢のなかの三島由紀夫は言ったのである。 僕はそこで考え込んでしまった。もちろん夢のなかでのこと。 過去において起きた死が、未来に起こるであろう死に転換されるようなことは、果たして「あり得る」のだろうか? もしそれがあり得るとすれば、過去における死は未来に繰り返される運命にあり、死の一回性、つまりその「出来事性」は失われてしまう。それは同時に、時間の一回性が失われることであり、たとえば僕たちの宇宙の時間の始まりとしてのビッグバンという特異点も失われることを意味している。 だから、もし夢のなかの三島由紀夫が言ったことが本当であるならば、世界は永遠に時間を失っている、ということである。 永遠に時間を失っているとは、つまり、死は永遠に死そのものを繰り返し、生もまた永遠にそれ自体を繰り返す、ということであり、それはニーチェの「永劫回帰」を思わせる。あるいは、ひとつの「輪廻転生」のモデルなのだろうか。 そのあたりのどこかで、僕は目を覚ます。 そして深く考え込む。 三島由紀夫の『豊穣の海』は輪廻転生をめぐる小説だが、そこでは大乗仏教の唯識をベースにした輪廻転生が語られている。 それは大乗仏教であるから、「空性」はその哲学の大前提であり、あらゆる存在は「空」として捉えられている。つまり、輪廻転生する主体=魂は、それ自体として存在しないのである。 しかし、輪廻はするのだ。 では何が輪廻するのか? 唯識では、輪廻するものは「阿頼耶識」という働きそのものであり、それは主体を持たない。つまり、「働き」という述語しか存在しないのである。 ここに至って、僕たちの思考はひどく厄介な問題を抱え込んでしまうことになる。なぜなら、人間の思考=言語は主語なしには作動しないようにできているからだ。 2015年最後の日、僕はいつものように犬たちを散歩へ連れていった。 しかし、歩きながら考えていたのは唯識のことではなく、なぜ、Emが過去における死を意味している、なんて夢のなかの男は言ったのだろう、ということだった。 夢のなかで、僕たちは表象=シニフィアンの連鎖を体験する。 Emと、過去における死には、果たしてどのようなつながりがあるのだろうか。それらを結びつける情動はなんだろうか。 そして、音楽は意味から自由になることはできるのだろうか。 よく晴れた冬の空。 風は冷たく、樹々は凍え、犬たちは森を駆けてゆく。 僕は大声で、彼らを呼ぶ。 犬たちは美しい。その彼らの眼に、大きな冬の空が映っている。 ![]() #
by rhyme_naaga
| 2016-01-10 23:56
| Naaga`s Voice
僕の5枚めのソロアルバム『すべての美しい闇のために』は長いあいだ絶版のままでしたが、このたび増版され、ようやく再リリースすることができました。
ウェブサイトのほうはまだ準備できていない状況ですが、もしご購入に興味がおありの方がいらっしゃいましたら、下記のメールアドレスに直接お問合せくださいませ。どうぞよろしくお願いいたします。 info@ame-ambient.com ![]() もう何年も前に、このアルバムをリリースする時、何人かの人からタイトルを考え直したほうがいい、と言われました。 それは言うまでもなく、闇という言葉の持つダークでネガティブなイメージのせいです。僕にもそれはよくわかっていましたが、結局このタイトルのままアルバムをリリースすることにしました。 光と闇。 光はその輝かしさによって、大いなる正義や愛のメタファーとなりますが、光が眩ければ眩いほど背後の潜む闇は深くなります。すべてはコインの裏表であり、あらゆる存在は相対的です。 心理学者のカール・ユングは、父と子と精霊の三位一体に悪魔を加え、四位一体を唱えますが(ユングは、4という数字にずいぶんこだわっていました)、それは彼が、光と闇が相対的に存在し、お互いがお互いを内包していると考えたからだと思います。 いずれにしても、このとき闇はその内側に、光を包み込んでいます。 その光は、もしかしたらあまりにも小さくて、ささやかで、仄かで、多くの人の目には見えないかも知れません。 多くの人は、最初から見るつもりすらないかも知れません。闇は忌むべきものであり、人生から立ち去ってもらうべきものであり、あたかも最初から存在すらしなかったかのように振る舞うのです。しかし、その人がもし「私の人生に闇はない」と言うとき、その人はむしろ恐るべき闇のなかに立っています。 ![]() しかし、もし闇を見つめる勇気と誠実さがあれば、そこには人間が持っている優しさや悲しみや歓びがかならず見つかるはずです。例えば、ブッダは絶えずそこへ回帰しようとしていました。 なぜなら、そここそが、人が生きる場所だからです。 闇のなかには、ささやかな光が明滅し、それを抱きしめる腕があります。およそ見えないくらいの小さな光があり、それは生命の光であり、それを愛おしむ愛情があります。 それは僕にはとても美しいものに見えるのです。 『すべての美しい闇のために』というアルバムタイトルは、そんな思いから付けられました。 もしよろしかったら、どうかお聴きください。 ![]() #
by rhyme_naaga
| 2015-12-05 23:21
| etc
Underground Gallery Japanから"cold moon EP"のヴァイナルの予約が開始しました。
出荷予定は10月27日から。 ご興味がおありの方は、どうぞ下記のURLからご覧ください。 ![]() http://www.undergroundgallery.jp/index.php?main_page=product_info&products_id=46167 ![]() #
by rhyme_naaga
| 2015-10-30 21:07
| etc
ポーランドの北部、カシュビ地方で友人のポーランド人と落ち合った。
彼はドイツとの国境に近い街に住んでいるが、この湖と森の地に憧れて、土地を買い、家を建てようとしていた。彼の土地は森に拓かれた原野の丘にあり、そこから麦畑が見下ろせた。それは、美しい土地だった。 ![]() 彼は、以前からカシュビについて話してくれていた。そこに点在する湖はほとんど手つかずで、神秘的だった。森は深く、透明だった。そして、その森の中を、廃線になった鉄道の線路がなかば落ち葉と腐葉土に埋もれて、木立の中へと消えていた。それはベルリンとグダニスクという軍港を結んでいた線路で、この土地が戦前はドイツ領だったことの痕跡でもあった。ヨーロッパの紛争史において、ポーランドはドイツとソ連という大国に挟まれ、侵略され、虐殺され、貶められてきた。ドイツはカシュビを領土とし、ソ連はポーランドに侵攻し、そしてポーランドという国名はその頃、消えた。ワルシャワは蜂起し、ドイツに破壊された。ゲットーのユダヤ人たちは殺戮された。 しかし、カシュビの森に残ったのは、腐葉土になかば埋もれたその線路の廃墟だけだった。 湖はどこまでも透明で、そして冷徹だった。それは人の歴史も営みも、あらゆるものを飲み込んで、静謐だった。森は果てしなく、ロシアの大地まで続いているようだった。 そして友人は、湖についてのもうひとつの話を僕に語ってくれた。 それは彼がかつて一緒に暮らしていた犬のことだった。 その犬は、黒いラブラドールだった。ほとんどすべてのラブラドールが、あるいは犬たちのすべてがとても聡明で、友情と信頼にあふれ、人間にとって最良の親友であるように、そのラブラドールも彼の最高の親友だった。彼らは魂によって結ばれ、お互いを愛し、お互いを必要としていた。彼らは最高のペアであり、深く理解しあっていた。 ラブラドールは、まだ若かった。しかしある時、致命的な病を患った。 彼の親友は獣医によって、余命数ヶ月もないことを宣言された。そして、このまま病が進行すれば、親友は全身を激痛に苛まれ、その苦痛のなかで死んでゆくことになるのだと言われた。 彼は、そして獣医も、ラブラドールを安楽死させることを考えた。それ以外に、親友を苦痛から救う道は残されていなかった。 彼は親友の命の「終わらせ方」について考えた。それは獣医の手による一本の注射器によってなされるべきだろうか。彼は別の可能性についても考えた。そうして思いついたのが、親友を湖へ連れていき、最期の水泳を楽しませた後に、そのまま、湖の水によって終わらせることだった。 親友はなんといってもラブラドールだったから、泳ぐことがとても好きだったのだ。 彼は車に親友を乗せ、湖へ出かけた。最後のドライブだった。 彼はまず自分が湖に腰の深さまで入り、そこで親友を呼んだ。親友は嬉しそうだった。とても華やかな顔をしていた。そうして病に冒された体で、彼のもとまで泳いできた。親友は笑っていた。彼は、抱き寄せた。親友は、彼にしがみついた。大好きな湖の中で。 彼はすべてを終わらせようと思った。親友の苦痛を取り除き、この穏やかで透明な水の中に彼の生命を解き放とうと思った。しかし、彼の手は親友を抱きしめるばかりで、その命を取り除くことはできなかった。 彼の手には、愛情だけしかなかったし、その愛情は与えるだけで、奪うことに使われたことは一度としてなかったのだった。彼の手は親友を慰撫し、彼の指は親友を愛した。 湖の中で、彼はただ親友を抱きしめた。涙がこぼれ続けた。ここから先へ進むことはできなかったし、何ひとつ後戻りすることもなかった。彼はただ湖の中で立ちすくみ、親友を抱きしめ、親友を愛する以外にできることは何ひとつなく、たくさんの涙を流し続けた。親友は痛み、その痛みの理由すらわからず、まもなく終わる命の最後の灯火の中で、彼と抱き合った。 「ごめんよ」彼は親友に語りかけた。 彼は親友を抱きしめたまま、湖から岸に歩いた。親友を車に乗せ、湖をあとにした。彼には、終わらせることなどできなかった。彼は親友と一緒に街に戻り、獣医のもとへ行った。 その彼と、湖へ行ったのだった。 その湖が、彼が親友と一緒に行った湖だったかどうかは聞かなかった。僕たちは湖で話をした。まだ9月なのに湖を渡る風は晩秋のように冷たく、湖面は透明に冴えていた。 カシュビ。2015年9月中旬。 ![]() #
by rhyme_naaga
| 2015-10-28 22:40
| Naaga`s Voice
ワルシャワから地方の街を経由して、バルト海沿岸部の地域であるカシュビ地方へ移動した。
カシュビにはビトワというさらに小さな街があり、そこからさらに森の奥へ車で移動する。カシュビには多くの湖があり、それらを針葉樹と白樺の森が取り囲んでいる美しい地方で、まるで古代の東ヨーロッパの森がそのまま残されてしまったような、古代的、あるいは中世的な原野である。 ![]() ビトワの中心部には、中世、キリスト教僧兵の城塞の廃墟があり、カシュビ地方を治めていた。このカシュビの森の中に、美術館が新しく造られ、僕はそこでの演奏のために赴いたのである。 カシュビ地方の美しさは、例えば、タルコフスキーの映画『ノスタルジア』に現れる主人公の故郷、ロシアの森のような美しさである。 緩やかなこう配の原野が湖に向かって沈もうと傾き、静寂の霧の中であらゆるものが息をひそめている。馬たちが白い息を吐きながら押し黙っている。白樺の森が人を寄せつけぬ神秘に凛然と存在し、ただユーラシアの北へと広がっている。あらゆるものは、ここまで来てその森に消える。鏡のような湖はすべてを拒絶して、さらに美しい。 そのカシュビ地方に、ストーンサークルがある。 湖のほとり、小高い丘の麓から頂上にかけて、いくつものストーンサークルが点在し、それらの合間を縫うように盛土の墓がある。一体誰が、いつの時代にストーンサークルを造ったのか大きな興味を覚えて、そこまで連れていってもらった。 ストーンサークル自体はそれほど大きなものでないが、それは整然と配置され、なおかついくつものそれが丘全体を覆っている。アメリカインディアンのダンサーがここに来て陶然とし、熱狂して夜通し踊っていたのだとポーランドの知人が教えてくれた。 彼が言うには、これらを造ったのはスカンジナビア半島からやってきたゴート人たちだということだった。 ただ、この「野蛮」なゲルマン、ゴート人がスカンジナビア半島の出身であることは現在では疑問視されている。いずれにしても、ゴート人たちはかつてこのポーランド、バルト海沿岸部あたりに跋扈し、やがて黒海のほうへ移動していった。 しかし、本当にゴート人たちがこのストーンサークルを造ったのだろうか。 例えば、ヨーロッパの代表的なストーンサークルであるブリテン島のストーンヘンジは、ケルト系の人によって造られたという説があるが、ケルトがヨーロッパに流入してくるのはストーンヘンジが造られた時代よりもはるかに新しいはずである。ストーンヘンジとケルトが深く関係あるとすれば、それは、ケルトがブリテン島にやってきた時、「すでにそこに存在していた」ストーンヘンジを祭祀に利用したからではないだろうか。 ストーンヘンジ、あるいはストーンサークルの出自はおそらく、とてつもなく古い時代に起源しているように思われる。ケルトは、ゲルマンがヨーロッパにやってきた時にはすでにそこに存在していたが、そのケルトにしてもインド・ヨーロッパ語族の圏内にあり、じつは大差はないのではないだろうか。ストーンサークルは、そのケルトよりさらに古い時代にやってきた「まったく別種」の人たちによって造られたような気がする。 例えば、スペインのバスク。 彼らのバスク語は、他のヨーロッパの言語とはまったく異なったシステムを持った異邦の言葉である。そのバスクの先祖は、果たして誰なのか。バスクはどのようにヨーロッパに来たり、どのような異邦の神、異邦の文明を宿していたのか。 バスクとは、一体誰なのか。 ストーンサークルは、ポーランドのものに限らず、ヨーロッパに偏在している。しかしその起源は、僕にはバスクの源流にあるように思われて仕方がない。かつてケルトやゲルマンが流入してくる以前、ヨーロッパに偏在していた人々。彼らの文明。彼らの祭祀。エクスタシー。死。それが巨石文明としてのストーンサークルに繋がっているような気がする。 そして、もうひとつ。 小規模ながら、ストーンサークルは日本にも存在する。東北地方のストーンサークルがもっとも有名だが、縄文時代のストーンサークルは紀伊半島にもかつて存在していた。 それらは、一体誰が造ったのだろうか。縄文人とひと言で片付けるわけにはいかない。そこにはすでに多様な民族のタペストリーがあり、その織りなす糸の流れは、ユーラシアの一体どこまで延びているのか。 シベリアの、モンゴル平原の、あるいは満州の。 それとも、ストーンサークルはユングが仮説した「集合無意識」の表出なのだろうか。 その巨石文化は、人類の無意識に深く関わり、人類が人類であるためのひとつの条件のようなものであったのだろうか。 巨石文化と人類の精神は、果たして繋がっているのだろうか。 夢の中で、あなたは巨石と結ばれているだろうか。 一体それは、何だろうか? カシュビ。2015年中旬 ![]() #
by rhyme_naaga
| 2015-10-24 21:40
| Naaga`s Voice
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