数年ぶりに、生まれ故郷の川へ行った。長良川の上流支流。車を停めて、川へ降りてゆく道を辿る。助手席を降りる母に大丈夫かと尋ねると、足は鍛えているから大丈夫や、と言う。かつてその道は狭いながらも車道であった。だが今では人しか通れないようになっている。たぶんその先に続く橋が老朽化したせいだ。その橋を見やると、舗装のアスファルトは剥げ落ち、雑草が至るところから茎を伸ばしている。
わずかに傾斜がついたその道を下りてゆくと、杉の木立の日陰に入った。すると突然、懐かしい故郷の川の匂いが鼻を打ったのだった。まざまざと幼少時代のことが蘇る。川へ下ってゆく道を辿りながら、かつて僕は何を夢見ていたか。かつて何に悲しみ、何に歓喜したか。水音がする。川がひたすら流れ続ける音である。
アルフォンソ・リンギスの本からの抜粋をもうひとつ。彼は現象学のメルロ・ポンティなどの翻訳をしているらしいが、むしろニーチェ的である。
『価値を表わす語はすべて、ありあまる力を聖化する。この力の聖化によって、生ける有機体は、みずからの環境の諸力に包摂されている状態から離脱し、みずからが属する種への従属を強いる再生産の命令に服従している状態からも離脱する。病気や器官と精神の衰えの兆候を見つけだすための医師の検査によって決定されたり定義されたりするものではない健康ー歓喜に満ちた力の感覚に呼び覚まされる健康ーは、絶え間なく満たしつづけられる力の浪費によって明らかとなる過剰なのである。それは、人体の機能的完全性が示す特徴なのではなく、本質的に、既知でありながら未知でもある多種多様な、サテュロスとゲリラの健康なのである。それは、誓約であって、事実の報告ではない。それは、激しく回転する過剰な力の混沌から生まれた、踊る星の軌道である。』
流れる水を透かして、緑色に発光するような川底が見えている。気持ちええねえ、と母が笑う。陽射しが眩しいのか、顔をしかめながら川を覗き込んでいる。ああ、僕は言う。この川で僕は泳ぎ、そして日々は過ぎた。
初夏のような日だった。