三郎という語の起源に「すさぶ」という言葉があるのではないか、と書いたが、じつは僕にはもうひとつ思うところがあって、それは「さすらう」、である。
「さすらう」が三郎に変化したのではないか。
「すさぶ」スサノオが荒ぶる神であるならば、「さすらう」という言葉にはもう少し穏やかなニュアンスがある。
「さすらう」から連想されるのは、神社でよく唱えられる「大祓」の詞。大祓では、人々の罪穢れを川の上流から海原まで連携しながら持ち去ってくれる3人の女神、そして一人の男神が登場するが、河口から海底へと持ち去ってくれるのが、「速さすらヒメ」である。速さすらヒメは河口で受け取った罪穢れを海底へと、「持ちて失いてん」、つまり、抱えて海底を歩きながらどこかへ葬るのである。
先に僕は、「さすらう」には穏やかなニュアンスがあると書いたが、速さすらヒメのこの姿には穏やかなところなど何もない。罪穢れを背負って海底を歩く様は、むしろ深々とした熱を帯びてすらいる。荒ぶるスサノオのような過剰な熱ではないが、もっと確信に満ちた強靭な熱がそこにはあるのだ。
「さすらう」熱。あるいは、供儀された者のみが持つ狂熱。
だが、「すさぶ」にしろ「さすらう」にしろ、共通して言えるのは、「移動」である。熱を帯びた移動。帰るあてどを持たない決定的な旅。
八ヶ岳の「風の三郎」とは、そののどかな名前とは裏腹な熱狂を纏っているのかも知れない。そして、風の三郎の姿から、僕たちは八ヶ岳のとてつもなく古い神の姿を幻視することができるかも知れない。
そのために、今度は諏訪大社にフォーカスしてみよう。