母はやがて上流の故郷を離れ、下流の街で働くようになった。岐阜市である。街の中心には、長良川という川が流れている。
「私はデパートに勤めとったやろ」母は言った。「仕事が終わるともう夜やけど、私はそれから長良川まで行って、泳ぐんや。気持ちええでな。あの、長良橋の橋ゲタ、わかるやろ? あそこの下が深くてなあ、泳ぐにはいちばん良かった」
「おう、俺もよおそこで泳いだ」僕は言う。「あそこは気持ちええな」
「今はもうだいぶ浅なっとるけどな」
「そうやな、もうあかんな」
僕がそこでいちばんよく泳いだのは、18歳の頃だった。暑い夏だった。今、僕のCDのジャケットデザインをすべてやってくれているフリーデザイナーのM君は当時からの友人で、毎日欠かさず一緒にその橋ゲタで泳いだ。当時、M君はパンクスで、町田町蔵(現・町田康)のパンクバンド「犬」のレコード『メシ喰うな』を愛聴しており、橋ゲタの下の深みへ体ごと沈んでゆくたびに、
「スカッと地獄!」と奇妙なことを叫んでいた。
デパート勤めの母が夜に泳ぎ、それから20年ばかりして今度はパンクスが暑い陽射しの中で泳ぐ。
岐阜市あたりの長良川は、川幅もずいぶん広くなり、流れも穏やかになっている。
デザイナーのM君とは、それからもよく一緒に泳いだ。お互い東京に暮らしていた頃、一緒に車で里帰りをして、家に帰らないまま川へ行くのだ。すでに夜。水着もないから、裸で川に入り、流れの中央付近まで泳ぎ出して、ごろんと夜空を仰ぎ見る。そうして夜空を眺めたまま、どこまでも川の流れにまかせて下流へと流されてゆくのである。
これは、まあ、見る人が見たら、死体みたいなものだが、どうせ夜中だから誰も見てなどいない。
そうやって、ずっとずっと流されてゆくのだ。
とても充たされたまま。幸福な暗闇のなか。水のなか。