山形の旧朝日村にある注連寺。
ここは、かつて作家の森敦が寝泊まりしていたお寺として知られている。それは、1951年のことだった。
僕がこのお寺を訪れた理由は、この希有な作家がどんな場所にいて、小説『月山』や『意味の変容』のアイデアを紡ぎだしたのかを知りたかったからである。

今でこそ、注連寺にはご住職がいらしているが、森敦がたどり着いた当時、ここは荒みきった廃寺であった。
本堂の片隅に置かれていた即身仏は、無惨な保管状態のせいで今にも首が落ちそうだったという。
その廃寺で、森敦はひと冬を過ごした。豪雪地帯のこと、その寒さをしのぐため、彼は和紙で蚊帳のようなものを作り、その内部に籠った。
「任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という」
これは『意味の変容』に書かれている一節。
この廃寺での体験は、『月山』ではなく、むしろ『意味の変容』のほうにエッセンスが注がれていると思う。
厳冬の廃寺で、まるで光に満ちたマユの内部のような場所に生きながら、森敦はこう考えたかも知れない。
「もし、このマユの境界が外部に属するとすれば、マユそれ自身には境界が存在しないことになり、よって、マユはひとつの無限の空間となる」と。
そうして、マユは、その外側の世界と反転する。あるいは、同じ質量を帯びる。
内部は外部となり、外部は内部となる。
生は死となり、死は生となる。
思えば、森敦はカフカ的であり、『月山』に登場する月山そのものも、やはりカフカの『城』に登場する城のようではなかったか。
注連寺がある地域は、深い山の斜面地である。
数年前に襲った地滑りのため、お寺のある集落はすべて無人となった。
そこかしこに、廃墟となった家々が残されていた。
そして、注連寺にかつてあったという「森敦記念館」も、いまはもうない。
ここはかつて、廃仏毀釈の以前には、湯殿山信仰のとても重要な拠点であり、多くの修行者らで賑わったはずである。だがその賑わいは、ここにはもう跡形もない。
まるですべてが、消えてゆくようだ。
月山そのものが、ひとつの壮麗な夢であるように。