前回引用した辺見庸氏の文章を改めて読んでみて、ふと坂口安吾を思い出した。彼のエッセイに『風と光と二十の私と』というものがあって、その中で安吾は、代用教員をしていた頃のことを書いている。
ある時、牛乳屋の悪ガキが他の生徒を脅して文房具屋から鉛筆を盗ませた。それに気がついた安吾は、その悪ガキに近づき、かんべんしてくれと言う彼にこう言うのである。
「かんべんしてやる。これからは人をそそのかして物を盗ませたりしちゃいけないよ。どうしても悪いことをせずにいられなかったら、人を使わずに、自分一人でやれ。善いことも悪いことも自分一人でやるんだ」
安吾はよく、悪を書いた。悪を書ける作家は、とても少ない。中上健次、坂口安吾、ジャン・ジュネ、フェルディナン・セリーヌ、ヘンリー・ミラー、ウィリアム・フォークナー、アントナン・アルトーetc。
坂口安吾の小説を、もっとも絶望的だった若い時代、暗がりに灯るひとつの蝋燭のように僕はくりかえし読み続けた。東京で、誰とも共有することのない青空が広がる公園のベンチで、一人で懸命に読んでいた。それは美しく、切なく、エモーショナルだった。
「夜の空襲はすばらしい。私は戦争が私から色々の楽しいことを奪ったので戦争を憎んでいたが、夜の空襲が始まってから戦争を憎まなくなっていた。戦争の夜の暗さを憎んでいたのに、夜の空襲が始まって後は、その暗さが身にしみてなつかしく自分の身体と一つのような深い調和を感じていた。・・・(中略)・・・そして高射砲の音の中を泳いでくるB29の爆音。花火のように空にひらいて落ちてくる焼夷弾、けれども私には地上の広茫たる劫火だけが全心的な満足を与えてくれるのであった。
そこには郷愁があった。父や母に捨てられて女衒につれられて出た東北の町、小さな山にとりかこまれ、その山々にまだ雪のあった汚らしいハゲチョロのふるさとの景色が劫火の奥にいつも燃えつづけているような気がした。みんな燃えてくれ、私はいつも心に叫んだ。町も野も木も空も、そして鳥も燃えて空に焼け、水も燃え、海も燃え、私は胸がつまり、泣き迸しろうとして思わず手に顔を覆うほどになるのであった。』 (『続・戦争と一人の女』)
写真は、冬のいつもの散歩道である。今はもう雪も消えた。
4月のライブとワークショップの情報をアップしました。
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